再びの進撃
また予備校に通うことになった。
元々通う予定ではあったものの、いざその時になってみると怖いもので。
その時に感じたのは、締め付けられるような息苦しさだった。
三月は泣き暮らし、四月は好きな事をして遊んだ。
五月は美術館を見に行き、六月は少しだけドローイングをして、
七月は自分について考え、八月に手術を受けた。
そして今だ。
こう見てみれば、本当に半年も休んでいたのかと驚きもする。
ここ半年で気持ちはかなり軽くなり、受かった人間のことを散々恨んで心の中で罵った結果、気持ちは晴れないが多少整理はついた。ガチガチに固まって怯えるような神経質も、無意識の内にこびり付いていた固定概念も、打ち砕いて、ほぐして、まぁ柔らかくはなったのではないかと思う。
技術は描いていない分落ちたと思うが、それは描きながら取り戻せばいい。
……と、ここまで考えながら自覚した。
これは強がりだ。
頭ではわかっている。
怖がっても何も解決しない。受験において、他人が出来る事は殆ど無いのだと。
そう思っていても、やはり不安は拭いきれない。
ちゃんと描けるかどうか。
予備校にうまく馴染めるかどうか。
講師人に同級生や年下が居ようものなら惨めでたまらない。会いたくない。
今まで過ごした時間は本当に有意義なものだったのか。
私の考え方は本当に間違っていないのか……そもそも間違いってなんだ。
「ちゃんと」なんか描かなくていい好きなように描けばいい。
浪人を惨めに感じるのは、浪人している人間だけ。既に合格した人間は誰が浪人しているかなんて気にもしていないんだから、私ばっか気にしても独り相撲だ。何にもならない。
頭ではわかっていても、怖い。
体はストレスを受けていたのだろう、遂にお腹を壊し吐き気で倒れた。
薬を飲んで、カイロをはって授業前のガイダンスに向かった。
枯れるくらい泣いて、枯れ果てた頭で色々考えた結果を携えて、心の準備を念入りにして、惨めな言い訳も散々考えて。
フラフラになっても何とか頑張って立っていたのは
「戦わなければ勝てない」
そう思ったからだった。
進撃の巨人のセリフだ。
初っ端の授業は、コンクールから始まった。
この時期は毎年基本設置モチーフ。皆スタイルが確立されていないので、少し配色を変えたり、構図を整理して入れている絵が多いように見られた。今年もそんな感じだ。
けれど、私にはもうそういう風に描くモチベーションは無い。
あまりにも突飛過ぎるものは評価できないとコンクール要綱に描いてあったし、あまり派手なことはしないほうが良いかとも思ったけれど……
「戦わなければ勝てない。」
本番で、突飛だからどうとか言っていられないのだ。
作品は、自分の考えを形にするもの。
本来ならば、やりたいようにやればいいものだ。周りがどんな絵を描いていようと、そこで空気を読む必要なんてない。
突飛は目立つと言うこと。悪目立ちの可能性もあるが、。逆に、目立たないのは他の作品に埋もれている状態だ。悪目立ちもともかく、埋もれているものは確実に受からない。
このタイミングで素直に描いたところで、結局は手が乗らなくて、いつものように中途半端な絵が出来上がってしまうだろう。
ならば反抗して、評価がもらえなくても、一枚ちゃんと考えて好きな絵を描いた方がいい。
そう考えて、コンクールでは好きな絵を描いてきた。
もう、真面目な良い子ちゃんはやめるんだ。
課題だってやってないけど、でもそれで困るのは私だ。
他人に迷惑をかけているわけでもないのに、私が萎縮する必要はない。
やりたい事をやろう。好きにやろう。
恥ずかしいかもしれない、自信がないかもしれない。
それでも、今回は勇気を出して好きな事をしたのだ…!
この事実は揺らがない。
この選択が、今後いい方向に行くかどうかは、未来の自分に期待したいと思う。
御母堂は黎明を望む
私の癖の強い御母堂の話を聞いてほしい。
というか、私が話したいのでするね←
私は親ガチャに成功した方なのだと常々思っている。
それは、色々な友人の家庭事情の話を聞いていれば差は明らかだった。
我が家は必要だと言えばある程度の物は買ってくれて、高くて良い服も着させてくれる。私がやりたいと言った事は基本的に賛成してくれて、思いっきり出来る環境まで整えてくれて、その上応援までしてくれる。金銭的な心配もしたことなければ、不仲の心配もない。非がないどころか、素晴らしい家庭だと自分でも思う。
けれど、私の両親は良くも悪くも厳しかった。
小学生の頃から、問題が起きれば尋問のように一から十まで詳しく説明させられ、都合の悪い事も問答無用で暴かれ叱られた結果、私は嘘がつけない性格になり。やりたい事をやらせる代わりに一才の妥協は許さないし、中途半端にやろうものならそれがいかに無駄な事なのかを真剣に(故に威圧的に)諭された結果、私はやりたくない事が絶対に受け入れられない諦めの悪すぎる人間へと成長していた。
浪人においても同じだ。私の両親は基本的に浪人を容認してくれている。
容認……というか、芸大に受かるまで私に付き合う覚悟を決めていると言っていた。(この話は現役の時から変わらずされていた。)
裏を返せば、「浪人しても良いけど、浪人するってことはそれほど行きたい理由と、必然性と、絶対受かる覚悟、やり切る意思があるんだね??」という事なのだ。
最初の頃はゴロゴロいた同級生も、四浪もした今ではもはや私以外見当たらない。皆基本芸大第一志望で、その狭き門を突破出来た者は少数。その他大半の同級生は「金銭的に」「親が何浪までと言っている」「ストレスの限界で」と言って滑り止めの大学に進学していった。
私が「親が何浪してもいい」と言ってくれている、と言えば皆「理解してくれているんだね。」とか「浪人許してくれるなんていいなー」とか言うけれど、それは学歴主義で完璧主義な親を持った大変さを知らないから言える事だ。私にとっては「何浪までね。」って他人に理由を擦りつけて諦められる方がよっぽど羨ましい。ーー他人のせいにして簡単に楽になれるのだから。
他人のせいにもできず、諦めることも許されず、惨めでも苦しくても未来を信じて走り続けなければならない。
そういう厳しさと、覚悟を持った人こそ私の母親だった。
そしてそんな母親に育てられた私も、望んだ未来は是が非でも叶える、そのためには自分で考えて動いていく。
諦め悪く四浪し、ストレス耐性は人一倍あるタフネスに育て上がっていた。
……ぶっちゃけ顔で丸め込めるかわいい女に憧れなくもなかったが
まぁ逞しく後悔なく地に足ついて生きていけているので、そんな感じでよしとしておこうと思う。
mashiro.
先駆者は我儘なようだ。
どうも。最近は自分の好みを観測しながら、受験範囲の人間に絞って作家さんや友人の動機を読み漁っています、真白です。
もうムリ!!苦しい!!!!
胃が潰れそうでござる……。
自分の好みを観測するというのも、なかなか難しいもので。
少しでも作品の糧になるようなものを考えようとして絵について吟味して見ても、
ビジュアルに関しては、好みの幅が広すぎて統一感はまるで見当たらず、
好きな作家さんの動機に関して調べても「そういう考え方もあるよね」と納得してしまい、あまりそこにどうこう思わない……受け入れてしまうので、明確な自己主張も見えづらい。
だからといって、そうやってぐるぐると絵のことばかり考えていても、既存の価値観に囚われて沈んでいくだけ。
と言っても、ただ色んな本を読んだり映画を見て感想を書き留めるだけじゃあ、なんだかだらだらしている様で罪悪感で死にそうに…。
完全に負のループ。底無し沼。
このままでは、私の胃がすり減っていくだけなので、仕方ないから具体的な方法を召喚。
それは今までみた合格者のスケッチブックの様子を思い返してみる事だった。
先に合格した先駆者たちが書いたスケッチブックの中身、そこに書いてある動機を何人分か思い返してみる。
ある人は「記憶」、ある人は「奇妙さ」。
「……私情…??」
「絵画」と形式指定されてしまっている以上、表現が表面的なものである人はいるようだったが、自分の興味の部分に迷いが見える人間なんていなかった。誰しも必ず自分の興味が先に来て、それから表現が来ていた。それは極めて個人的で、一筋縄では共有できなさそうな理由。
私は今まで自分の興味関心の軸を美術史の中から探って理由付けしていた。
絵のなんたるかも全くわかっていなかった私が、まず最初に理由づけとして利用したのは「錯視」。それはオプアートの領域にあるストライプの描き方をやるためだけにとってつけたもの。そこから発展させたものは「二次元と三次元」。それも結果そうなったら嬉しいくらいの、執着のないものだった。
「あれ……?これじゃあ、のめり込めなくて当然じゃね……?」
全く自分の考えじゃない。これで親身になれという方が無理な話なのだ。
どうにも私の手から浮いていると思っていたけれど、この時ああそういう事かと納得した。
……そもそも、それがダメな事だと思ったのはいつだったろうか。
美術館に行って「何かしら感じ取らなければいけない」「自分の意見を持たなければいけない」と思ったのは何故だったろうか。
そう言われたから……だったような気もするけれど、それは私の在り方じゃない。
もうここまで来たら“受け入れてしまう自分“だって受け入れてしまおう。
一回やってみて、それでダメだったらまた考えよう。
とりあえず、前考えた事を見直すところから始めようと思う。
取って付けたような興味だって、確かに私の興味の一部だったはずだ.
mashiro.
ふりだしにもどりました。
美術館に行き、画集を見て、今までの絵を見て、
……で、お前は結局何がしたいの?となった今日この頃。
えげつない「ふりだしにもどる」感に死にそうになっております。
真白です。
(こんなのスタート逆戻りなんて、そりゃないぜ全く。)
四浪が決まってから、とりあえず落ち込んで。散々散らかした部屋を復元し、必要な椅子と机とプリンターを購入した。
そこから緊急事態宣言の中、いつも通り何かヒントはないかと映画を見て、美術館に行き、画集を見たのだけれど、
結果出た結論は「……なんか全部他人事だな。」だった。
作品への導きは人それぞれ違うので、全てを鵜呑みにしないように私はいつも「この人はこういう考え方で作品を作っているのだな。」というふうな見方をするのだけれど、今まで作品鑑賞において受け入れられていたその見方が、なんだか急に「これはその人の考え方でしかない。」と思うようになったのだ。
そうなれば、じゃあお前は?となるわけで。
考えてみて、はっきりしなかったからこそ、今はそこを突き詰めなければいけないのだなと再認識したのだった。
でもまぁ、ここで闇雲に作品のことを考えてもどうせ狭い選択肢の中で負のループに陥るだけなので、とりあえずそこを追求するのは一旦やめた。
もう少し自分が好きな物をもっと柔軟にとらえて整理できるようになってからにしようと思う。
今日はここまで。
あぁ、首都高ドライブしてぇ。免許持ってないけど。
mashiro.
♪ EVO+「angel fish」
始まりが付けた傷跡
どうも、真白です。
ブログ開設してから初めての記事に何を書いたらいいか迷って、それじゃあ アーティストに憧れたきっかけでも振り返っておこうかと、指を動かしています。
長い年月の話なので、まあそこら辺はおいおい。とりあえず明確なきっかけなった出来事についてでも書くことにします。
それでは、どうぞ。
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幼い頃の私は、見るもの全てに興味を持ってはすぐ飽きる。
音楽とゲームが苦手で、絵を描く事とミステリーが好きな、普通の子供だった。
学歴主義者で厳しい変わり者の母親と、勉強熱心な普通の父親の元に生まれ 、なんだかわからないまま遊具に釣られていった学校に、気づいたら入学していて。(これがお受験だったと言う事には向こう5年は気づかなかった)
二階建てで、ワンフロア ワンルームの合計2部屋しかない素朴なアパートに住んでいたはずが、気付くとちょっと大きめのアパートに住む事になっており、何故うちはこんなに節約しているのだろうかと疑問に持ち始めているうちに、どういう訳か、マイホームで暮らしていた。
2005年12月30日
幼稚園卒園を控えた年末。引っ越してきた新居で私はテレビを見ていた。
付けていた番組は、レーコード大賞。
大型音楽番組好きで、FNSやMステなど、事あるごとにチェックしていた母親は楽しみにしていたけれど、当時演歌ばかりの番組を幼女が楽しめるはずもなく、故に楽しみにしていた訳もなく。
それでも何故、見ていたかといえば、単純に引っ越したてで物がなく、やることがなかったからだった。
幼女の起きている時間の番組なんて、大体ニュースしかやっていないし、ゲーム(当時はDS)にも さほど興味は無い。
だから、だらだらとチャンネルをくるくる変えながら、年越しそばが出来るまでの暇つぶしに「こういう歌の良さも分かるようになりたいなー」なんて事を呑気に考えながら聞きたくもない演歌を無理やり聞いていたのだった。
そんな中で、一組のグループの順番が回ってきた。
パフォーマンス前の簡単な挨拶で、どうやら彼らが最優秀新人賞にノミネートされている事、男女混合なのが特徴である事を知り、そのビジュアルに一瞬にして目を奪われた。
「お母さん見て!ギャルだ!!」
「やめなさいよ!?」
食い気味だった。
まだ「なる」なんて一言も言っていないんだが。
「ギャルってこういう人達の事を言うのか…」
というのが第一印象だった。
如何せん お堅い両親の元で育っていたので、当たり前に身近にはいないし、子供向け番組で見る機会もない。なので その時初めて見た派手な若者は、とても新鮮で興味を惹かれたのを覚えている。
「この人達は かっこいいと思ってるから、この格好をしているんだよね。」
これは決して侮辱している訳では無い。
母親に連れられて高い服を当時からよく着せて貰っていたけれど私は、本当は、今で言う量産型のような格好がしたかった。
フリフリとかレースとかを、可愛いな、着てみたいなとずっと思っていたけれど、お堅い母親はギャル……というか、要するに「品のない人」を毛嫌いしていたので、ギャル全盛期の中、どうしたって雑誌で見たような服を着ることは叶わず。
そうやって周りの目線を気にせず好きな格好をしている人に羨望の眼差しを向けるしかない。
私だって品のない人は好きじゃないけど、好きな服は着たかった。
司会者からの質問に答えていく若者の姿を見ながらルーズソックスを履いて制服を着崩した自分の姿が想像しされる。
「私も高校生くらいになったらこうなるのかな…」
「やめなさいよ?!」
またしても食い気味だった。
思わず思ったまま母親に報告して、間髪入れずにと力強く言われ、やっぱりしばらく好きな格好はできそうもないな、と肩を落とした。
がっかりして、そのままーーー興味を失った。
司会者が曲振りをしてパフォーマンスが始まる。
母親の反応が私の興味を著しく削ぐものであった事は事実だけれど、それは決して直接的な原因ではない。
単純に、始まったパフォーマンスに毛ほども魅力を感じなかったのだ。
曲調も好きな感じではなかったし、ダンスの動きも早く、多いので、顔を捉えようとするカメラワークだと、認識する前にフレームアウトするから、どこを見たらいいのか わからない。
黒ベースに白いラインが入り、キラキラとラインストーンのついた衣装も好みとは言い難く、その年のレコ大のステージデザインも同じく黒ベースに白いラインだったので、強い照明の反射と画質の悪さも相まって、明度差で視界がバチバチして、とても子供が見続けるのには厳しものだった。
アイドルではない立ち位置に、どんなパフォーマンスが見れるのか楽しみにしていたということもあり、歌って踊ってアイドルよりちょっと激しくアクロバットするだけのパフォーマンスは期待外れ。
「なんだぁ、結局ダンス&ボーカルグループはステージ上で、歌って踊る以外にアクロバットくらいしかやることがないのか。」とか、
「どうせ なんとなくやりたいって感情でオーディション受けて、いい感じに上手かったからオーディション通って、そのまんま流れでデビューって感じだろ。5年で終わるな。」
とか思っていたのだから、とんだマセガキである。
グループにも、パフォーマンスにも魅力を感じられず、 なんとか かっこいい人はいないか探してみたけれど、そもそもまともに顔を抜かれているのが4人だけでありながら、全員さまざまな理由で顔が判別できない。
歌っている人、一人はラップが異色すぎて幼女には怖いし、一人は帽子をかぶっていて顔がよくわからない。女の子は目の周りが真っ黒で顔が判別できず、踊っている人たちの中には、友達にはいないタイプの強そうな女の子、友達のお兄ちゃんと同じくらいに見えるガリガリの男の子、黒い肌に黒髪で顔がわからない人に、可愛いけど絶対メイクしてない方が良さそうな子が並んでいる。
そんな中で、唯一顔が認識できた男の人。
優しげな顔立ちに、品のある出立ち。
そして、何かに基づいて確信を持ったパフォーマンス。
ーーーそれを見た瞬間、
「これだ…!これやりたい!!」
「歌も踊りも全く興味ないけど、これやりたい…!」
今考えると、これが私の“表現”へ のめり込む第一歩だったのかもしれない。
その後、そのグループは無事、最優秀新人賞を受賞した。
「最優秀新人賞は…AAA!!!」
堀江貴文さんに名前を呼ばれて涙して喜ぶ姿は、彼らにとってその賞がどれだけ価値のあるものなのかを物語っていた。
他人の本気度合いなんてわからないし、パフォーマンスに対する私の感想が変わるわけではないけれど、他人の夢が叶う瞬間、目的を果たし現実感がなく戸惑いながら喜ぶ様子を見て
「ただ、チャラチャラしているだけじゃない。
この人達は、好きな服を着て、好きな髪型をして、やりたいこと"やりたい"と言って、それをやる為に努力して。あの舞台に立っているのはその結果だ、、
好きな格好して、好きな事をして、社会的にも自分的にも価値のある結果を残している……」
「……羨ましい。」と思った。
私も、 自分のスタイルを明確に持ち、それを恥じる事なく他者と共有したい。
私も、やりたい事を満足いくまでやりたい。自分の可能性を何一つ潰したくない。
地位も金も異性を籠絡したいとも思わないけれど、私も
ーーー全力で考え抜いて、こだわり抜いた何かで誰かとやり取りをしてみたい。
その思いは15年の月日を渡り、やがて大きな傷跡となることを、当時の私は少し予感していた。
mashiro.