先駆者は我儘なようだ。
どうも。最近は自分の好みを観測しながら、受験範囲の人間に絞って作家さんや友人の動機を読み漁っています、真白です。
もうムリ!!苦しい!!!!
胃が潰れそうでござる……。
自分の好みを観測するというのも、なかなか難しいもので。
少しでも作品の糧になるようなものを考えようとして絵について吟味して見ても、
ビジュアルに関しては、好みの幅が広すぎて統一感はまるで見当たらず、
好きな作家さんの動機に関して調べても「そういう考え方もあるよね」と納得してしまい、あまりそこにどうこう思わない……受け入れてしまうので、明確な自己主張も見えづらい。
だからといって、そうやってぐるぐると絵のことばかり考えていても、既存の価値観に囚われて沈んでいくだけ。
と言っても、ただ色んな本を読んだり映画を見て感想を書き留めるだけじゃあ、なんだかだらだらしている様で罪悪感で死にそうに…。
完全に負のループ。底無し沼。
このままでは、私の胃がすり減っていくだけなので、仕方ないから具体的な方法を召喚。
それは今までみた合格者のスケッチブックの様子を思い返してみる事だった。
先に合格した先駆者たちが書いたスケッチブックの中身、そこに書いてある動機を何人分か思い返してみる。
ある人は「記憶」、ある人は「奇妙さ」。
「……私情…??」
「絵画」と形式指定されてしまっている以上、表現が表面的なものである人はいるようだったが、自分の興味の部分に迷いが見える人間なんていなかった。誰しも必ず自分の興味が先に来て、それから表現が来ていた。それは極めて個人的で、一筋縄では共有できなさそうな理由。
私は今まで自分の興味関心の軸を美術史の中から探って理由付けしていた。
絵のなんたるかも全くわかっていなかった私が、まず最初に理由づけとして利用したのは「錯視」。それはオプアートの領域にあるストライプの描き方をやるためだけにとってつけたもの。そこから発展させたものは「二次元と三次元」。それも結果そうなったら嬉しいくらいの、執着のないものだった。
「あれ……?これじゃあ、のめり込めなくて当然じゃね……?」
全く自分の考えじゃない。これで親身になれという方が無理な話なのだ。
どうにも私の手から浮いていると思っていたけれど、この時ああそういう事かと納得した。
……そもそも、それがダメな事だと思ったのはいつだったろうか。
美術館に行って「何かしら感じ取らなければいけない」「自分の意見を持たなければいけない」と思ったのは何故だったろうか。
そう言われたから……だったような気もするけれど、それは私の在り方じゃない。
もうここまで来たら“受け入れてしまう自分“だって受け入れてしまおう。
一回やってみて、それでダメだったらまた考えよう。
とりあえず、前考えた事を見直すところから始めようと思う。
取って付けたような興味だって、確かに私の興味の一部だったはずだ.
mashiro.